« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月の2件の記事

■B-5 無理の無い効果的な練習が現役人生を延ばす!

 は朝青龍の熱烈なファンではないが、朝青龍の復帰戦を見てつくづく思ったことは、日本人力士の弱体化が救いがたいことである。

 反論覚悟で言わせていただくと、最後の力士は千代の富士だったと思っている。貴乃花は横綱として精神面が少しひ弱だった。だから始終占い師に掛かりっきりで、心技体の内で心の成長だけが遅れてしまった。

 今回、朝青龍が残したことは、これまでの相撲の常識を完全に引っくり返したことではないか?

 稽古をすればするほど強くなるというのは嘘で、適度な稽古が土俵人生の寿命を延ばしている・・・・・それを稽古嫌いの朝青龍がとうとう証明してしまったということである。

 同じことは野球にもいえ、日本野球はシーズンオフでも我武者羅に練習を強制するが、大リーグでは逆に体を休める。イチロウでさえ室内で軽くバットを振る程度である。

 それを端的に物語るのが北京オリンピックの女子マラソンで、「走った距離は嘘をつかない!」を人生訓にしていた野口みずきは、無茶な練習が祟って左太股筋肉断裂という一種の金属疲労で戦力外となり、土佐礼子も走り過ぎで小指が曲がる外反母趾でスタート直後に脱落した。

 そういえば、同じ北京オリンピックの男子柔道も、カビの生えた「講堂館精神」とやらに胡坐をかいた連中だけが惨めに敗北した。負ければ伝統もクソもないのが武道のはずが、日本では負けても品位があれば許されるようだ。

 古い話で恐縮だが、1968年のメキシコオリンピックの女子水泳陣も、バケツを結んだロープを腰に巻いた抵抗水泳で練習し、案の定、本番では筋肉疲労で最悪の結果に終わった。根性論一徹のコーチ陣の責任である。 

 日本人は何でも「精神論」と結び付けたい人種のようで、その風習が強く残る相撲界では、「横綱審議会」なるメンバーでさえ、勝負より横綱としての品位を重視する本末転倒振りを発揮し、それを誰も不思議と思わない。

 朝青龍が完全復活したことは褒めても、両手を挙げて喜びをアピールする行為は、横綱の品位と伝統の面から如何なものか・・・・・・・という苦言を呈する。それほど悔しければ日本人の横綱を出したらどうなのか?それさえできない相撲界なら、己のひ弱さを知って言葉を慎むべきだろう。

 朝青龍がモンゴルの旗をオープンカーに持ち込んで振ったシーンは、TVではカットされたようだが、モンゴル国籍で、日本人を総なめにした外人力士が母国の旗を振って何の問題があるというのか?

 どうやら精神と品位に問題があるのは、伝統で何でも誤魔化す癖が身に付いた日本人のようである!!

 

|

■Bー4 2009年冒頭の憂い!

 009年5月から、日本の司法界に「裁判員制度」が導入されることになった。
 日本人に裁判への参加が馴染むかどうかの問題はあるが、とにかく始めようということになった。
 

 ところが、鳴り物入りで始まったはずの裁判員制度も、蓋を開けてみれたら案の定というか、日本人の悪しき癖が各所で報告され始めている。 
 裁判員として参加している「裁判官」が、自分の権威を振りかざし、権力を盾に己の意見を通すケースが激増しているのだ!!
 

 各県で行われた「模擬裁判」の中で、民間代表の裁判員たちが様々な面から有益な意見を述べても、参入している裁判官が「そのような状況証拠を取り上げた判例は無い!」、「そんな判例は過去に一度として存在しない」と、釘を刺し始めるのだ。
 

 すると、「もう一人の裁判官」も同僚の裁判官の肩を持ち始める。当然である、そうしなければ査定に響く。「確かに過去にそんな判例は一度としてありません」と断言してくる。そして、「過去の判例では、コレコレでして」と、官僚答弁表のような一覧を出してくる。

 結果、民間を代表しているはずの裁判員たちは、二人の裁判官の意見に賛成し、結審するのである。
 

 これではいったい何のための裁判員制度かと疑いたくなるが、これが検察と司法官僚の目的としたらどうする?

 日本では、警察(検察)と司法が急速に癒着構造にある。「三権分立」は絵に描いた餅で、行政(自民党)も一枚噛んでいる。

 司法最大の問題点は、何のために裁判官が2人も裁判員の中に参加するかということだ。 力を合わせて民意を踏み潰すためである!

 一人だと民意に押し切られる可能性がある。これが裁判員制度の正体だ。
 アメリカの「審制度」では絶対に裁判官を同席させない。なぜなら民意が影響を受けるからだ。
 

 つまり日本では、民意を押しつぶすシステムが司法で構築されたということである。

 結果、権威と実例を振りかざしてくる裁判官二人の意見に、民間から選ばれた裁判員の全員が萎縮し、ならば専門家に従った方が間違いないだろうと従属する形で終わる。
 

 じつは、裁判員制度には恐ろしい落とし穴がある。「」の激増に対するセフティ装置として考えられたはずが、民意を巻き込んで、検察側の正しさを証明し、司法もそれで責任回避できる手段として変貌した。
 

 恐ろしいのは、過去に多くの冤罪を発見できた矛盾(証拠)点を、裁判員制度によって踏み潰されてしまうことである。

 どういうことかを説明しよう。裁判に提出される「証拠品」は、裁判短縮を名目に、極端に省かれてしまうのである。省くのは警察と司法の人間である。要は、彼らに都合の悪い証拠品は、全て握りつぶして提出できないことを可能とする制度になっている。これは体裁のいい「警察国家」の出現を意味する。
 

 勿論、アメリカで許されている「取り調べ映像」も、一部しか公開されない。警察にとって都合が悪い部分は、撮影されていない理由で隠してしまうということだ。アメリカは全面公開に踏み切っているが、日本の警察と検察は“が無くなる”と反対、自民党と創価学会公明党もこれに賛成している。

 さらに検察は、マスコミの独自調査で冤罪が発見できたケースを防ぐため、情報を漏らした人間と、聞き出した側(マスコミ)を逮捕する法案を自民党と創価学会公明党を通して強行可決してしまった。
 

 そういう中で始まった警察優位の裁判員制度は、戦前より強力な警察国家の樹立を目的に、甘いオブラートに包みながら、検察が仕組んだ狡猾なシステムなのだ。
 

 国民を利用しながら推し進められる裁判員制度は、百害あって一益無しの恐怖社会システムという事実を警告しておく。

 

|

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »