« 2005年7月 | トップページ | 2005年11月 »

2005年9月の2件の記事

■第8話

 配していた通り、民主党の“旧社会党化”は本来の民主党の力を、大きく損なうイメージを国民に与えたようだ。民主党のダメージは計り知れない。二大政党政治など夢の夢と消え失せ、時代が一気に戦前へ逆行してしまったかに見える。
 
 本会議に出席せず(旧社会党の常套手段)、牛歩戦術(旧社会党の常套手段)で時間をダラダラ間延びさせ、会議を途中退席(休社会党の常套手段)し、自民党のすべてに反対(旧社会党の常套手段)し・・・・おまけに、どの民主党議員も紺の背広に紺のネクタイ姿。まるで社会主義国の制服である。
 おまけに労働組合がバックにいて、結局、党の構図は旧社会党と酷似する様になってしまった。おそらく中にいた議員たちは、少しずつだが確実に旧社会党の影響に染まっていったと思われる。
 
 それでも若手は決断力に富んで柔軟だったが、旧社会党、(旧民社党の一部を含む)中堅クラスが足を引っ張りつづけ、いつの間にか民主党を旧社会党化してしまった。
 自民党出身者だった岡田前代表は、生真面目なだけで面白みがまったく無く、応用力も無いため猪突猛進の牛になってしまった。これも旧社会党のパターンに酷似する。
 
 今さら誰も「日本をあきらめない」のキャッチなんかに心が動かされるわけが無い。
 岡田前代表に言われなくても、とくに首都圏では景気が上昇し始めた日本を誰もあきらめる気などなかったのだ。いったいあのキャッチはなんだったのか未だにわからない。おそらく岡田前代表が最終決定し、周囲を支える旧社会党出身の幹部らが後押ししたのだろう。とにかくずれている。これも旧社会党とまったく同じだ。
 
 おまけに「有権者は賢いですから、選択は誤らない・・・・」の妙なセリフは、敗者のセリフに多く登場する。有権者をバカとはいわないが、決して賢いとも思わない。それは古今東西の歴史が証明していることだ。それを賢いと言い切るところが、「民衆」や「大衆」という言葉を好み、十派一絡げで表現していた旧社会党と同じなのだ。
 有権者はその時の気分でコロコロ変わるし、ムードに弱いのも万国共通なのだ。

 意外かもしれないが、民主党にとってボディブローのように効いたのは、ホリエモンに見棄てられたことだ。
 ホリエモンは様々な分野で“触媒”として大きな力を発揮する革命児だが、岡田前代表との会見後、ホリエモンは柔軟性の無い旧社会党に牛耳られたような民主党とオサラバしてしまう。彼は鼻が利く。決してバカではない。あの時、すべてではないだろうが、若者層の多くは、ホリエモンが見棄てた民主党はやはり未来が無いと踏んだと思われる。
 
 私が昔から言い続けている「小泉=徳川慶喜説」は、今もまったく変わらない。慶喜には長期的な策は無く、幕府方の武将を前に大いに演説し、最大限に盛り上げた後、闇に乗じて大阪城から遁走してしまう。
 荷が重過ぎて途中で放り出して逃げ去ってしまったのである。今の小泉首相も基本的に郵政だけ終わったら、1年で遁走する気でいる。そういえば慶喜も蛤御門の「禁門の変」で長州を京から追い出し、一時は討幕運動を壊滅寸前までもっていった。

 選挙で大勝ちしたため、郵政一本では在任中解決できないため、年金問題、天下り特殊法人問題、議員年金問題・・・・等々は全て丸投げだろうし、特に議員年金などは、新人議員以外の古株自民党議員が総出で賛成するとは到底思えない。そこで手が入り、骨抜きにされただけの看板替えで終わり、「どうです、改革ができたでしょう」の小泉パフォーマンスで終わるのが関の山だろう。
 はたしてどうなるか、平成の慶喜のやり口を、これから見ていくことにしよう。■

| | トラックバック (0)

■第7話

 泉劇場は華やかにオープンしたようだが、その解散劇で小泉内閣の支持率は大幅にアップした。
これまで自民党に票を入れなかった人も、小泉首相の旧体質利権議員たちの切捨て劇を見て感動し、今回は自民党を応援すると思っている人も少なからずいると聞いている。
しかし、小泉首相の頭の中は、どう考えても「郵政民営化」しかない・・・・・周囲がいくら郵政民営化が改革の第一歩で、それが後の年金や少子化資金等々の改革に連動すると進言してもまったく耳を貸さなった。なぜだっのだろうか?

 そういう小泉首相の行動が、なにか妙ということを選挙民は気づかねばならない。
実際、小泉首相は前から郵政民営化が“本丸”と断言していた。本丸とは“ゴール”のことで、ゴールというのは当然だがその先が無いことである。マラソンを考えればいい。これを昔の郵政大臣が言うなら権限の範囲からもわかる。が、一国の総理大臣が言うのなら話が違う。
つまり小泉首相の頭には「年金問題」や「少子化問題」を解決する気持ちも策も無く、ただただ郵政民営化だけしか入っていないことを示している。

それではまずいというので、閣僚たちが“本丸論”から“入り口論”に切り替え始めたが、小泉首相だけは相変わらず本丸論で突っ走っていた。
もともと小泉首相というのは、“丸投げ”しかできない性格である。彼にできることは郵政民営化だけで、それが唯一のテリトリーである。
だからこそそれに対する否定は、小泉自身の存在への否定につながる。だから過激に反応した。その意味では今回は非常にわかりやすい。小泉首相の頭には中身がまったく無いのだ。

 何度もいうが、「改革」は内側からは絶対にできない。欧米では歴史が証明していることで、だからこそ外部の第三者機関が強制力を持って介入する。
今回の衆議院選挙も公示前から盛り上がっているのはいいが、ここにきてようやく「政策」に論点が移ってきた。それは結構なことで、政治はムードも大事だが本質はやはり政策、つまりは具体的なマニフェストが重要なのだ。

 今の民主党は旧社会党化してきたとはいえ、骨抜き改革に終始する小泉内閣に政権をゆだねるのは非常にまずいと思われる。おそらく今の民主党なら、自民党が100年以上もかかるダラダラ改革を5年前後でやってのけるだろう。
よく見なければならないのは、小泉改革をウラで演出しているのが“官僚”ということだ。彼らは自らを超エリートと自負し、国民を愚民と舐めきってきた連中である。その官僚の背後にいるのがアメリカで、官僚はアメリカの言いなりという図式になっている。

 最近のド派手なハリウッド映画のように、華やかさばかりに目をくらまされ踊っていると、後で騙されたことに気づいても手遅れになる。かといって、反小泉の元自民党の族議員たちを応援する気も無い。彼らは利権がらみで反発していたに過ぎないからだ。
もう一度言うが、改革は外部機関しかできないことは歴然としており、内輪の改革は手心が加えられ、結果的に看板替えのわずかな改革しか期待できない。見かけの華やかさに騙されないことだ。

 最近の日本人は、聖徳太子の「和をもって尊し」を掲げながら、敵対する者をも混ぜて和の体制を持つことに異を唱えないが、それは完全な“片手落ち”である。聖徳太子が実在するか否かは別にしても、聖徳太子にはもう一つの側面がある。「十二の冠位」である。
これは従来の一族血縁で凝り固まった利権構造を完全に破壊する政策で、実力のある者が地位につくことを示している。無能な者が高い地位にいると国策を誤らせるからだ。
亀井静のように、何でも「義理人情」論では、たとえ悪徳、無能者でも故郷では城主となるので、票が入る理屈になる。義理人情はやくざの「任侠」のお題目でもあり、それが利権とつながる構造と大同小異ということだ。
だからヤクザ映画の菅原文太が亀井候補の応援に駆けつけると似合うのである。あんな政治家は追い出すに限る。いまさら大型公共事業を広島に持ってくる時代でもないし、そんな能力もパイプも無いので、田舎の老人たちの義理にすがるだけの無能候補だ。

 われわれは、選挙戦略の面白さを評価するための選挙に参加するのではないし、自民党のお家騒動に振り回されるつもりはない。よく見れば党利党略ではないか!
 選挙はファッションショーではない。生活に直結する重要政策をやる人間に票を入れるのだ。■

| | トラックバック (0)

« 2005年7月 | トップページ | 2005年11月 »