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■第51話 日本の伝統という名の虚像

 京オリンピックを控えた2007年の「世界柔道選手権大会」の結果は、至急に手を打たねば取り返しがつかなくなる危険性を示唆する大会だった。

 ブラジルで催された柔道大会は、完全に外国ルールに変わっており、谷亮子選手の準決勝相手の選手などは、袖をつかみにくい柔道着(日本なら違反)を着用し、技が完全に決まった後の返し技の方を優先する外国ルールが全面的に使用された。結果、男子柔道は辛苦を舐めることになる。

 これらの新ルールは欧州を中心に発達したレスリングを基本としたもので、もはや日本生まれの柔道ではないようだ。そもそも、フランスのパリに「国際柔道連盟」の本部を置いた時点で、今の事態は始まっていたといえる。

 しかしである、元々、「柔道」はスポーツではなく武道、武術だったはずである。柔道精神を度外視すると、実践で殺しあうのが実践武道のはずだ。実践では、一本の大技が決まっても、投げられた相手が大人しく首を差し出すはずがない。必死になって返し技で対抗し、逆に投げられた力を利用して馬乗りになって相手の喉を掻き切るかもしれない。

 そう考えていくと、日本柔道はいつの間にか柔道精神という奇麗事のお嬢様芸になっていたともいえる。それを実践優先の外国に指摘されているのかもしれない。

 同じことが「空手」にもいえ、寸止めルールが常識の中、朝鮮系日本人だった大山倍達が現れ、それまでの空手はダンスに過ぎないと、今の「K-1」の基礎となる極真空手を立ち上げる。大山は直接相手に撃ち込む実践空手を掲げ、その弟子たちが極真で禁止されていた顔面撃ちすらグラブを着ける事で取り払った。もし大山がいなかったら、実践中心の海外で空手は発展しなかっただろう。

 国技である「大相撲」も同じだ。今や外国勢が君臨して捩れ現象が起きている。朝青龍問題に対する相撲協会の体たらくぶりも言語に絶し、何かが起きたら何も出来ない組織ということを露呈した。伝統という枠に胡坐をかいてきたため、機転を要する力が欠落していたのだ。朝青龍は、そのことを結果的に教えてくれたのかもしれない。

 いつの間にか日本人は、伝統という枠を守ることが、イコールで日本古来の精神を守ることと勘違いし、武道の本質から離れていることに気付かなかったのではないか?

 それを外国人たちが教えてくれていると思えば、柔道にしても、投げ終わったら礼をして終わる奇麗事ではなく、実践的な意味でも完璧に勝った後、謙虚な精神と礼で終われば、さらに発展した柔道になると思われる。

 極真空手以外の他流派の多くは、寸止めであるがゆえ、正拳突きの練習の際、正拳を撃ち込んだら、暫く同じポーズでいなければならない。

 しかし、極真ではそんな真似をすれば最後、伸びた腕の肘を足で蹴られたらおしまいと教える。一発で折れるし、合わせ技も食らいやすくなるからだ。そのため、撃ち込むのと同じ速さで胸元に引けと教える。それが実践の精神である。

 今の柔道のルール問題も、基本的にはそれと似ていると思えてならない。

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