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2009年9月の2件の記事

Bー24 自民党が分裂?

 月の「衆議院選挙」で大惨敗した自民党は、未だに惨敗の総括ができず(する気も無いようだ)、混乱状態を呈したままである。

 それもそのはずで、時代を読み誤った執行部の連中が、看板である総裁を代えてイメチェンすれば、次の「議院選挙」と4年後の「議院選挙」で勝てると踏んでいるからである。

 そのためには、少なくなった派閥を一層強化し、逆らう若手を適当な役員人事に取り込めばいいと考えている。

 旧体質の老獪どもが平然と構えられる理由は、衆議院選挙後の自民党への国民の期待度が大きいことにある。しかし、この期待度とは“自民党が21世紀型に生まれ変わる”ことであり、“本を再び政官癒着構造に戻せる期待度”ではないということだ。自民党がそうならなければ、参議院選挙でも身捨てられるということである。

 ところが、キングメーカー(院政の別名)を自称する森喜朗をはじめ、惨敗の主犯たちである安倍晋三や麻生太郎は相変わらずのKYで、従来のやり方を変えるつもりは全く無い。

 古賀誠に至っては、「開かれた自民党、世代交代、派閥解消などいろいろ意見があるが、そう簡単な底の浅い状況ではない」と自己弁護と居直りを主張する。

 こんな連中が居座る自民党など、到底、民主党と対等になり得るはずもなく、健全野党など絵に描いた餅で、話にもならない。

 それほど自民党の老獪どもが自信を持つ理由は、サボタージュを含む“国家官僚の反乱”に期待するからだ。

 その時のために、官僚と組めるのが自民党である。だから河野太郎たち若手が言うような、改革された自民党であってはならないのである!!

 これが自民党OBや、派閥の長どもの目論見であり、そのため、今も、官僚と一緒に安定した日本を作れる党は自民党だけであると発言し、“皆で一緒の全員野球”を公言してはばからない。

 最大の権力行使ができる「検察」は、たとえ政府側になっても、長年の特権意識から抜け出せるはずが無く、その権力欲を最も知るのが自民党の派閥のトップや老獪どもというわけである。これには自民党執行部は結構自信があるようだ。

 そこで自民党ができることといえば、民主党議員が公開している金の使い方(何年も前の分)など、どうでもいいチマチマしたミスをあげつらい(自民党の不正支出に比較すれば民主党などは可愛いものだが)、それを新聞社や週刊誌にリークすることである。

 他には、過去の自民党が仕出かした膨大な負の遺産に苦慮する民主党を、己のことを棚上げにして攻撃することである。

 

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■Bー23 「世論」&「輿論」!!

 後世代は、 「」と「輿」の違いを全く知らずに育っている!!

 読みは「世論(せろん)」と「輿論(よろん)」だが、戦後教育の中、世論を“よろん”とも読んで、世論に統一してしまった。学校でも新聞でも同じ動きを見せ、今に至っては世論しか知らない世代で満ちている

 では世論と輿論の違いとは何なのか?

 世論とは、世間一般の意見をいう。大多数の民衆の意見といってもいいだろう。一方の輿論とは、公的な意見をいう。公的とは「公(おおやけ)」という意味で、国家を示す。つまり民衆の意見を世論、国の指針を輿論という。

 現代の日本に当てはめると、民主党が推し進める公共事業見直しの象徴「八ツ場ダム」(群馬県)の地元民と、彼らの意見に同調する多くの意見が世論で、民主党政権が宣言するダム廃止が輿論となる。

 おそらくマスコミは、八ツ場ダム住民に同情的なキャンペーンを張り、民主党が重視する「方重視・地方分権」に反し「友愛」にも反するのではないかと民主党攻撃を展開するはずである。そして国民の意見をパーセントで表し、この世論を無視する政治を独裁と同じと言い出すかもしれない。

 昔から日本人は国民の声を“の声”というが、それは不遜な意見だ。それが暴走すると幕末に闊歩した“”となり、戦中の日本人の多くが叫んでいた鬼畜米英に反する意見を言うと“”にされる事態を招く。

 世論とは世界共通ではない。よって日本の世論を勝手に神の声と決め付ける行為は傲慢であり不遜である。

 明治新政府が「亜入欧」で進めた「明開化」は、公がヨーロッパ各国から良い点を集め、日本に持ち込んだ結果であり、国民が世論で動かしたわけではない。しかし、国家が全てを決定する「中央集権」に偏ったため、軍部が悪用して、最高の公である天皇を利用し、結果的に国を破壊した。

 明治時代の日本では、「自由民権運動」が活発で、自由平等を求め、それが大きな世論になっていた。が、それを当時の公の輿論が封殺した。

 このことから、世論と輿論はバランス感覚が重要で、そのどちらに傾きすぎても国が動かなくなる!!

 よって、八ツ場ダムの扱いが仮に民主党主導で廃止されたとしても、それで世論(輿論を一緒くたにした一方的セロンの意)に逆らう暴挙と断ずるのは間違いということだ。おそらく自民党や公明党は、それを盾に民主党攻撃に出てくるだろう。

 しかし、それは民主党判断の輿論の結果である。そこを安易に妥協し、世論を重視したと誤魔化せば改革は反対意見で封殺され、自民党と同じいい加減な似非改革で終わるだけだ。

 国の仕組みが激変するのが「政権交代」であり、全てが丸く収まることをいうのではない。明治維新で起きた武家社会崩壊で多くの侍が職を失ったように、過去の社会システムは消え去るのが常である。

 それを国民が期待した以上、時に政策は非情であるべきで、激変の保障を行なってやればいい。そこを甘くすると、他の公共事業の周辺住民の声にも掻き回され、結局何もできなくなるだけである。

 論がいつも正しいとは限らない。その場合、輿論で決行するのも公の責任だが、題があるとすれば、全ての問題を輿論一辺倒で押し切らないことだろう。

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